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ヒロインのジュディがおてんばだった記憶はあるけど、記憶よりもずっと聡明でお茶目で皮肉屋で、学びと経験とともに一人の女性として自立していく物語だったってことに、今回初めて気づけました。その自立を妨げないよう、卒業まで自制心をもって沈黙し続けた「あしながおじさん」、いい男じゃん!速水真澄ばりに脇甘いけど! 明らかに「謎のおじさん=途中でジュディといい感じになる男」ってわかるベタなフラグの立て方とか、ほんとに今の小説やマンガに使われてる型がここにあるんだなあと思いました。それを地の文の説明なしに、女子のとりとめもない語り口調で描くというすごさ。さらに、そこに当時の時代背景を的確に落とし込むというすごさ。100年以上たっても余裕で古びない。名作ってすごい。 あとがき(上智大学文学部教授の松本朗さん)もすごいおもしろくて、『あしながおじさん』はもともと児童文学ではなくて、当時の中流階級向けの主婦雑誌に連載されたものだったんですって。それで、「魅惑的な商品が陳列された一種の広告としても読まれた可能性があるのではないか」と。多くの女性たちがジュディの目を通してハイファッションや英文学や社会問題に興味を持ち、自分でも触れていったかもしれないっていう推論ですけど、いやーあったでしょ、それ! 松本さんは「主婦の雑誌が有する力を侮ってはならない。消費をする主婦が持つ社会的な力は、社会の変革に繋がりうるのである」と書かれてるけど、私もそう思う。女性のミーハーなパワーとか妄想力って確かにすごいもんがあると自分でも思ってるところ。10代のころもすごかったけど、意外とこれが40になっても衰えないんですよね。最近はね、生田斗真はやっぱりいいなあと思ってるとこw 話ズレましたが、消費を肯定してるっていうのがいいじゃないですか。しかもジュディはある程度消費の快楽を楽しみつつ、流されない賢さもある。ビッグウェーブに乗れない人生もつまんないし、ビッグウェーブに飲まれちゃう人生もつまんないって思うんですよ(今だとSNSとかね)。ジュディの場合は、小説家になることと、自分好みの孤児院をつくるっていう自分なりの使命があって、それが楽しくて忙しいから他の誘惑とのバランスが取れる。それっていい感じの生き方だよなあ。 でもやっぱこの小説を最初に読んだ少女時代には、そんなことに気づけるわけもなかったし、気づかなくていいと思う。読む年齢によって印象が変わるっていうのが、『あしながおじさん』の超すごいところなんだと思います。 あと訳者の土屋さんのあとがきに書いてあった、ジュディのいう「あしながグモ」(Daddy Longlegs)は、ザトウムシもしくはガガンボっていうのが衝撃でした。日本で最初の翻訳本は『蚊とんぼスミス』だったって。ガガンボおじさんだったらきっと読み継がれてないよね……和訳タイトルだいじ!! ![]() #
by reiko.tsuzura
| 2019-05-12 00:06
| 本
「電気グルーヴのCDおよび映像商品の出荷停止、在庫回収、配信停止」という対応に反対します。 「ピエール瀧の逮捕に伴うソニー・ミュージックレーベルズの対応について」 http://www.denkigroove.com/info/archive/?504907 昨日の夜、Apple Musicから消えていく音源をあ然としながら眺めてました。ここ数日くそムカつくことばっかりだったけど、これに関してはムカつくうえに悲しい。音源あるから今日も聴くけど。でも、これから電気の音楽に出会う誰かの可能性が消えると思うと悔しい。現場で志と愛情持って働いてる人たちを思うと悔しい。 そしてサブスクで音楽聴くってこういうことなんだなあと、いまさらながら実感しました。私は今サブスクの恩恵を受けまくってるけど、こういう面もあるということ。知らないうちに誰かの手でごっそり奪われちゃうこともあるってこと。 こんなんムカついて眠れねーわとグチってたら、ダンナに「でもそういうこと教えたのが電気っていうのが電気だなって感じするよ。ムカつくけどどっか痛快」と言われて、ああそうかもしれないと思いました。この世の中、軽く地獄みたいなことが頻繁に起こるけど、笑いとばしちゃえば?って教えてくれたのも電気。なんだっていーじゃん、どんな人だって百年後は死んじゃうよ。まさに。 それにしても「出荷停止、在庫回収、配信停止」というのが誰に対して、何に対してなのかまったくわからない。わかる人がいたら説明してほしい。ビジネスコンプライアンス?それってリスナーと作品の関係をぶっ壊していいものなの?逮捕の件は大人なんだから大人として本人が責任取ればいいだけの話で、私が電気グルーヴの音楽やピエール瀧出演映画を聴いて観て受け取ったもの、感じたことは1ミリも変わらないし、これからも作品と接して何かを感じる機会を奪われる筋合いはない。 たくさんの言葉が飛び交うなかで、吐きそうにムカつくことも多いけど、このblock.fmの記事は読んでよかったと思いました。 とくに「音楽文化が持つ背景」という箇所。これは小説とか映画とか、なんでも当てはまる。私たちは一人ひとり、自分の想像力を膨らませて創作物を楽しんでるし、楽しんでいく。音楽や映画や小説を通して、自分の人生だけじゃ到底見られない景色を見て、知ることのない価値観を知って、ちっぽけな世界を広げていく。それがなければ私の人生、半分以上(いやほとんどか)荒涼としたものになったと思う。たくさんの創造物に恩を感じてるし、愛情がある。だから思考を止めないで、その先を想像していかないと。 自分がなにか言ったってなんも変わらないとか言ってるのもいい加減飽きたし、親としてそんな姿勢は子どもにぜったい見せたくないし、なにより超弩級にムカつくので、今日ここに書いておきます。
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by reiko.tsuzura
| 2019-03-15 10:42
| 音楽
思い出したようにブログ書くんですけど、新年も明けましてそろそろ1か月。2018年に書こうと思ってたことを、忘れないうちにと思って書きます。 雨のパレードの「MARCH」という曲について。2018年3月に出た『Reason of Black Color』の収録曲です。 卒業をモチーフにした、ちょっとノスタルジックな、青春の終わりの始まりを書いたような曲。いい曲だなあと思って聴いてたんですけど、最初のほうにこんなフレーズが出てくるんですね。
こういう曲にたくさん共感して育ってきたけど、親になって早7年、私はもう完全に「大人たち」の側。「うん、見せたがるよ未来を。どうにかして見せたいよ」と、この曲の主人公たち「じゃないサイド」で思います。ちょっとおセンチな気分でね。 で、そのあとこの曲はこう続きます。
ここでいきなり高揚感のあるサビになる。あ…、あれっ、と思いました。もう話の視点が変わってる。さっきの「大人たちはみんな 僕たちに未来を見せたがる」って話はどこいった? 「未来を見せたがる」ことに対してはどうなの? ウザいの? 「わかってねーな無責任に言いやがって」って感じ? でも今の子ってやさしそうだから「まぁありがたいけどね〜」って感じ? まーそんな「じゃないサイド」の感情はみごとに置き去りにして、この曲の主人公(たち)は、次のシーンへ走っていっちゃうんです。 そのとき、なんとも言えない感情になりました。 「未来を見せたがる」大人たちに対して、彼らがどんな感情を抱いてるのか想像もつかない自分がいる、ということに、なにかこうサッパリ寂しい感じがしたんですね。それは嫌な感じじゃなくて、「これもう全然わかんないわー」っていう、まさにサッパリとした不思議な気持ちよさがあって。 雨のパレードと同世代の人たちからしてみたら、「え、何がわかんないの?」って感じでしょうね。「まるごとわかるよ」って。 そう、それがわかってた時期が、私にもあるんです。たとえば私は椎名林檎さんと同い年なんだけど、彼女が2000年に出した『勝訴ストリップ』に「虚言癖」という曲があります。その歌い出しが、これ。
今でもはっきり思い出せる、このフレーズにまるっと共感したこと。別にドライアイに悩んでたわけじゃないですよ(笑)。なぜこの歌詞が「しかし」から始まるのか、目の乾く感じがどんなか、そのときの感情がどんな感じか。もう全部、生理的にわかる感じがした。そうやって曲にのめり込めた。思い込みだろうが勘違いだろうが、そうやって曲と接していた時期があった。 今となっては、「虚言癖」に共感したことだけが思い出せて、目の乾く感じがどんなか、そのときの感情がどんな感じか、その感覚はなくしちゃった。 で、「その感覚はなくしちゃった」ということを、雨のパレードの「MARCH」を聴いて初めて思い知ったんです。これけっこう衝撃の体験でした。 おそらく、この感覚が「わからなくなりかけてる」頃に聴いたら、すっごく焦ってただろうなあとも思います。完全になくした今だから、サッパリした気持ちになれたんだろうなあって。 親になって自分の時間が減って(子の成長につれ、ちょっとずつ戻ってきたけど)ポップ・ミュージックと自分の間にものすごい深い溝を感じてた時期もあるんですけど。「もう私たち、住む世界が違いすぎる。終わりにしたほうがいいかも」みたいな気分になってたこともあるんですが(それはつまり私にとっては廃業ということ)。 でも、違ったみたい。また視点を変えて感じるものがあるよって数年前の自分に言ってやりたい。ポップ・ミュージックというのはつねに新しく生まれながらそこにあって、細々とでも接していれば、変わっていく自分を知れたりもする。それってけっこうおもしろい体験だよって。 雨のパレードは数日前に、ベースの是永亮祐さんが脱退したそうです。きっと音楽性も変わるだろうな。でも雨のパレードの音楽も、是永さんの音楽も、続いていく。いろんなことが変わりながらポップ・ミュージックは続いていくんだなあ、ということに感動を覚える自分を、ここに残しておきます。 このMVまぶしすぎるやんけー #
by reiko.tsuzura
| 2019-01-26 10:26
| 音楽
小袋成彬さんのデビュー・アルバム『分離派の夏』のインタビューを担当しました。 で、ここからは超個人的な感想文なんですけどね。 小袋さんは自身の制作を「過去の経験を思い出して、読み解いて、再解釈していく」作業だったと語っています。たとえば「Daydreaming in Guam」という曲では友人の死が語られる。 でも、不思議なことに、小袋さんが自分の経験を自分の視線で語れば語るほど、私は私の経験を思い出すんですよね。 私が『分離派の夏』を聴いて思い出すのは、こんなこと。 あれは10歳くらいだったかな、おじいちゃんと散歩していたときのことです。一緒に歩きながら、ふとおじいちゃんと手をつないでることが恥ずかしくなったんですね。それで、すっと手を離した。 そのあと「ケーキ食べてく?」って聞かれたけど、「ううん、いらない」って答えて帰りました。 なんとなく手を離した瞬間とか、家に帰ってから、おじいちゃんがおばあちゃんに「ケーキ食べる?って聞いたら、いらないって言うんだよ」って話してたのも覚えてます。 この経験を一言でいうなら、成長とか、思春期とか? そんな感じでしょうか。でもなんか、そういう言葉ではかたづけられない何かがある気がするんですよ。だから妙に覚えてる、忘れられないシーンなんだと思います。 普段は忘れてるけど、たまーに、なんとなく思い出すシーンってありますよね。そのエピソードがどれだけインパクトがあるのかっていうのは全然別の話で。むしろ他人が聞いたら「へー」で流しちゃうようなことが、自分にとっては重要だったりもする。 私とおじいちゃんの散歩の1シーン、あれはなんだったのかなあと今も思います。別に、胸が痛む思い出とか、そういうのじゃないんですよ。まあ少しは「悪いかな」って思ったけど、「しょうがないじゃん」とも思ってたし。でもまあ、妙に覚えてるってことは、何か引っかかるものがあったんでしょうね。 子どもを産んで、おじいちゃん(私の父)と遊ぶ姿を見ていると、そのシーンをふと思い出したりもします。今6歳なんで、あと4年であのシーンか、とかね。 そして、つい世代交代ってものを考えちゃいます。 子どもがじじばばと接してるのを見ると、私もおじいちゃんやおばあちゃんに色々してもらったなあ、ということを思い出すし。そのわりには亡くなるとき薄情な孫だったなあ、とか。 それで、順当にいけば自分の親も年老いて死んでいくんだなあ、私もそのうち老いて死んで、いつかは子どもだってこの世から消えて……なんてことを、つらつら思ったりするわけです。 『分離派の夏』を聴いてると、そういうオチのない思いが数珠つなぎで出てきます。それはもう家族でも共有しようのない、超個人的な思い出や感情が沸きだしてくる。 普段はそんなこと考えるヒマもなく、「学校遅刻しちゃうよ!」とか「仕事終わんない」とか「夕飯どうする?」とか、そういうことに追われて毎日過ぎていきますけど。 そういう毎日の中でも、ふと思い出すシーンがある。思い出したからといって、どうというわけでもないけど、手繰っていくと芋ヅル式にニョロニョロと懐かしいアレコレが出てくる。その先に、何か大事なものがあるような、ないような……。 たぶんこれって、考えてもしょうがないことなんですよ。で、考えてもしょうがないことを考えるのって、悪くない時間なんですよ。そんなことを『分離派の夏』を聴きながら思いました。自分でも意外だったけど、そういう時間も必要だったんだなって。 しかし小袋さんが個人的に、自分のためにつくったものを受け取った他人(私)が、またそれぞれ自分の個人的なことを思うって、おもしろいですね。個人的につくったものだから、なんですかね。 でも個人的につくられたものが、すべてそうやって届くわけじゃないし。届く届かないは、好みやタイミングの問題なんですかね。ていうか、そもそも個人的じゃない作品なんてあるんですかね……なーんてことを、今日もつらつらと考えています。 #
by reiko.tsuzura
| 2018-04-27 10:49
| 音楽
2017年もいろいろドラマを観ました。9月クールはとくに充実してて、なかでも『刑事ゆがみ』が抜群におもしろかった。遅ればせながら神木くんの虜になりました。キレイな顔のまま成長してコメディもいけるなんて万能すぎるでしょ。あと浅野忠信さんは“悪い意味でトボけた”役が最高にハマる。 そして2017年とくに印象に残っているのは、やはり『カルテット』。『逃げ恥』でハードルが上がりまくった枠で、あのクオリティ、さすがでございました。しかし最終回は明るさと笑いの中に、けっこう重いテーマが描かれていましたね。カルテットドーナツホールに届いた謎の手紙は、心にずっしりときました。 とくにこの部分。 「みなさんの音楽は、煙突から出た煙のようなものです」
別に音楽やってるわけじゃない私ですらグサッとくる……。才能ない人間ががんばって、何の意味があるんですか?って問いは、誰にでも、何にでも当てはまる言葉ですしね……。 私も母親なんで、娘には「好きなことはがんばったほうがいいよ」と言ってるし、これからも言うつもりです。けど、やっぱりどうしたって「才能がない」ことって、ありうると思うんですよ、残念ながら。とくに音楽のような芸術分野においては。ちなみに私は幼少からピアノやってましたけど、小6で「煙の分際」であることに気づきました。そっから3年続けたけどキツかったぁ〜。 カルテットドーナツホールの4人は、それでも音楽を続けていく。なぜ続けていくのか、それも一応描かれていたけど、正直その未来はあまり明るいものとは思えない。ものすごく含みのある最終回、みごとでした。 で、その「煙の分際で」っていう呪いのような言葉が胃のあたりにズシーンときてるところで始まったのが、『SR サイタマノラッパー~マイクの細道~』でした。 SRは、ラッパー3人が川崎クラブチッタという一世一代の晴れ舞台を目指す音楽ドラマ。青森の大間を始点に、東北の食や名所を描くロードムービーでもありました。 このラッパー3人がね、センスも才能も金も運もなくて、やる気しかないんですよ。大間から川崎に向かう道中、曲も作らなきゃいけないのに、ロクなことやんない。で、いちいちケンカしながらイマイチなラップをかます。 なかでも、遠野のカッパ伝説になぞらえた回は最高でした。 池で立ちションしたらカッパに呪われて、呪いを解くためにカッパに女子のパンチラを見せるっていう話。遠野で出会ったラッパーとチームを組んで、カッパを誘い出すために池のほとりでラップを始めるんだけど、最初は嫌々やってた女子2人がだんだんノリノリになってくる。いい感じにダンスしてたらスカートひらー、パンツちらー、すかさずカッパが覗きにきて次第にノリノリ、最後はみんなでプチョヘンザ……って、なにコレ書いててビックリするほどくだらないんですけど! でも、なんか、「同じアホなら踊らにゃ損々」な盛り上がりに思わず熱くなっちゃったんですよね。いろいろ脱ぎ捨ててアホになれる瞬間って、ライヴの醍醐味じゃないですか。そのツボを的確に捉えてた。 HIP HOP寺で修行したり、ディスりあったり、ヤバい人たちに拘束されたりしながら、3人はなんとか最終回でチッタの大舞台に上がります。会場入りするとリアルなラッパーたちが続々出てきて挨拶代わりにラップを仕掛けるんだけど、3人はオロオロするばかりで一言も返せない。そこで「ああコイツら、ほんとに才能ないんだな〜」って見せつけてからの、最初で最後の大舞台。最終回はほぼライヴシーンで占められていて、音楽愛を感じました。 そしてライヴを終えた3人は、それぞれのサエない生活に戻ります。「やっぱラップやろうぜ」も「また集まろうぜ」もない、言葉足らずの解散シーンは胸にしみた。尻すぼみな感じだからこそ濃厚に漂ってましたね、「あ、こいつらやめないな結局」っていうムードが。「煙の分際で、やり続けるんだな」って。 「煙の分際で、続けることに一体何の意味があるんだろう」 っていう問いに答えは出ないけど。まあいいじゃん、いろんなヤツがいていいじゃん。って、畑道をラップしながら帰る主人公を観ながら思いました。またいつか続きが見たいな。 ちなみにこのドラマ、夫婦でハマり、RHYMESTERの「マイクの細道」(オープニング曲)を聴きまくってたら、6歳の娘がサビを完コピしました。 さー、2018年もドラマ観るぞ〜。 冬の5大テーマ祭り「国内ドラマ」をもっと見る ![]() #
by reiko.tsuzura
| 2018-01-10 15:25
| 音楽
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