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『三月は深き紅の淵を』 恩田陸 幻のミステリ小説『三月は深き紅の淵を』を巡る 4編の物語集です。 第1章は、金持ちの老人たちが年にいちどの余興として、 ひとりの若者を呼び、屋敷に隠された『三月は深き~』を探す。 第2章は、ふたりの女編集者が夜行列車に乗り、 『三月は深き~』の作者がいると思われる出雲を目指す。 第3章は、美しい姉妹による謎の死から、 『三月は深き~』の元ネタが浮かび上がる。 そして第4章は、『三月は深き~』を巡る小説を書こうとしている作家が、 その書き出しを考えている。 この4編を繋ぐキーワードである幻本『三月は深き~』には、いくつものいわくがあります。 まず出版されたときから作者不明であること。 作者がごく親しい友人といくつかの出版社だけに贈呈した百冊ほどの限定本であること。 この本の複製・譲渡は禁じられていて、 所有者はたった1人に1晩だけ貸すことができるという規定があったこと。 出版後、作者の代理人がすぐに回収したため、現在かなり希少価値があること。 この本を読んだ者は何人もいるのに、今となっては誰も現物を手にすることができず、 「現物はどこに?」「作者はいったい誰?」……と謎が謎を呼び、 ほとんど都市伝説と化した怪物本なのです。 さて、この小説がおもしろいのは、 第4部に作者自身らしき人物が描かれてるところです。 恩田陸といえば、とにかく“物語らしい物語を書く作家”というイメージが強いだけに、 「物語とは」「小説とは」「小説を書くとは」ってことに言及してること自体、 かなりインパクトがあります。 結局作家は、“なぜ書くのか”ということを書いてる人があまりに多くて、 (“なぜ歌うのか”を歌うシンガー・ソングライターが多いように) それはそれでいいんですけど、その点、恩田陸は職人的というか、 徹底して物語を紡いでやろうって気迫が伝わってくる作家なんですよね。 で、私が引っかかったのはこんな一文。 物語は作者のために存在するのでも、読者のために存在するのでもない。物語は物語自身のために存在する。 これは、第2章に出てくる女編集者の信念です。 でもこれはたぶん、作者の信念。 “作者の存在など感じさせないようなフィクション”を追い求めてる 恩田陸の信念なんでしょう。 「(前略)今でも人間が小説を書いてることが信じられない時があるもんね。どこかに小説のなる木かなんかがあって、みんなそこからむしりとってきてるんじゃないかって思うよ。(中略)いつかきっと『ほらーやっぱりそうだったんだー』って、その現場を押さえてやろうと思ってるのよね」 これは第2章に出てくる女編集者のセリフ。 それに反して、第4章には、 物語を生もうと机の前でウンウンうなってる作者がいるわけで、 この妄想と現実の交錯ぶりがおもしろい。 ああこの人はハンパなく物語が好きで、物語に憧れて、 物語に近づこうとしてる作家なんだな、と思います。 まあ、第4章は特に“作家・恩田陸”の種明かしというか、 ネタバレっぽいので、そのぶん物語的興奮は薄れるんですけど。 でも、たまにはこういうのもおもしろい。 しかし、よく考えてみれば “物語のために存在する物語”って、ちょっと空恐ろしくないですか? 一見ロマンチックだけど、宇宙とかを考えるのに似てうすら怖い感じがする。 私は寝る前に恩田陸を読むと、必ずと言っていいほど悪夢を見るんだけど、 この一文を呼んで、妙に納得しました。
by reiko.tsuzura
| 2006-01-26 22:48
| 本
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